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ターシュ王国

(2)ターシュの歴史

Brief History of the Kingdom of Tarsh

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2002/01/03 ぴろき
この記事はホビージャパン刊『グローランサ年代記』、
英国の雑誌『Unspoken Word vol.1』を参考にして書いたものです。

 ターシュ王国はドラゴンキルで禁断の地となったドラゴン・パスに北から入植した人々が建てた国です。その歴史は建国の父である“貧窮者”アリム王の神秘的な冒険から、ペローリアおよびルナー帝国との勇敢な戦い、そして悲惨な内戦を経てルナーの膝下に屈するにいたる波乱に満ちたものです。今もルナー属領地諸国最強の力を持つこの軍事国家の歴史について概観してみましょう。


アリム王の冒険

 1100年ごろ、おそるべき「ドラゴンキル戦争」がドラゴン・パスを襲いました。無数のドラゴンによってすべての人間が食らいつくされ、かつてワームの友邦帝国が繁栄をきわめたこの地方は無人の処女地に戻ったのです。「危険線」(Danger Line)と呼ばれる境界より先ではドラゴニュートや夢のドラゴンによる襲撃が頻発し、「死線」(Death Line)より奥から帰還できる者は誰もいなくなりました。かくして約二百年の間、ドラゴン・パスに人跡は絶えたのです。

 1300年代に入ると、この状況に変化が現れました。北の地ペローリアに勃興したルナー帝国が南進を開始し、オスリル川の上流高地に暮らすオーランス信者の蛮族たちに服従を迫るようになったのです。混沌を使役する帝国の支配を嫌ったオーランス人たち(彼らは英雄“ドラゴン殺し”アラコリング王にちなんで“アラコリング人”と名乗っていました)の一部は、あえて未踏のドラゴン・パスへの探検と入植に打って出ました。こうした再入植活動を導いた英雄のひとりが、後にターシュ建国の父となった“貧窮者”アリムでした。

 オスリル河谷の東側からつきしたがう人々とともにドラゴン・パス北西部、現在のターシュ地方に分け入ったアリムは、セントールのヘネレールやグレイズランド人の戦士ベンスト・ベールとの友好的な遭遇を経て、最後にケロ・フィン山の麓で地震の女神マーラン・ゴアの女祭であるソラーナ・トールと出逢いました。彼女に求婚したアリムは、いくつかの試練をくぐりぬけ、その過程でたくさんの賛同者を勝ち得、グレイズランド人とも親交を結ぶことに成功しました。晴れてソラーナ・トールと結婚したアリムは、ついてきた民人たちとともに新たにターシュ部族をつくりあげたのです。アリムはバグノットの町を首都としてターシュ最初の王に選ばれました。

 さてそのころ、アリムが後にしたオスリル川上流高地の民は着々とルナー帝国に征服されつつありました。1347年には帝国の英雄“征服の娘”フワーレン・ダールシッパの遠征によって、最後の要塞ミリンズ・クロスが陥落し、ドラゴン・パスの北に隣接するホーレイ地方がルナーの膝下に下りました。この結果、再び数多くの難民が南の方ドラゴン・パスに向けて殺到しました。彼らの多くは、そのころにはほとんど伝説化していた“アリムの秘密の王国”(アリムは別段自分たちの存在を秘密になどしていなかったのですが)を目指しました。再入植の先人として、ターシュ部族についてのさまざまな尾ひれのついた噂がそのころには広まっていたのです。当然のようにルナー帝国もこの国の存在に関心を示し、ドラゴン・パスに密偵を送り込みました。やがてターシュ部族の存在は帝国当局の知るところとなり、ルナー帝国はその征服のために軍を前へと進めました。

落ちる丘の戦い

 かくして1362年、ターシュはルナー帝国の侵略を受けることになりました。帝国軍の編成は、征服されたホーレイなどの属領地の軍勢に帝国中央から派遣された正規軍が加わるというものでした。圧倒的な物量と戦力を誇る帝国軍に対し、アリム王はこのときまだ十代だった自分の双子の子供(兄ヴァルスタポールと妹ヴェステンボーラ)を連れて、ターシュ部族と友邦諸族とともにホーレイとの境目にほど近い場所で敵を迎え撃ちました。ルナー軍が巧みな機動とともに蛮族軍に殺到したとき、アリムとソラーナ・トールとの間に生まれた双子は丘陵を持ち上げ、敵軍の上に落としました。帝国軍は粉砕され、敗走しました。これが世に言う「落ちる丘の戦い」です。

 「落ちる丘の戦い」での大勝利はアリム王の名声を四方にとどろかせ、その統治のもとにさらに多くの人々と味方を引き寄せることになりました。こうしてターシュ部族の威勢は高まり、その繁栄の中で1368年、アリムは妻と双子に見守られながら死にました。その遺体はアリム自身が冬の峰の中腹に建立した「揺るがす者の寺院」に葬られました。


双子王朝の栄光

 アリムの死後、双子のかたわれであるヴァルスタポールがターシュ部族の王に選ばれました。彼は線の細い男で、威風堂々とした妹のヴェステンボーラとしばしば間違われることすらあったといわれています。しかしこの双子が力をあわせれば、周囲何マイルもの土地に大きな地震を起こすことができたのです。この強大な魔術を頼って、双子のもとにも父の時代と同じように人が集まりました。一方、妹のヴェステンボーラは父王が建立した寺院の大女祭となり、護国のために地震の女神マーラン・ゴアのカルトを創設しました。

 やがて脅威が再び北からやってきました。今度はかつてペローリアを荒らし回った馬の遊牧民ペント人の軍勢でした。ヴァルスタポール王はこの敵に対して、一時的にルナー属領地の軍隊と手を結んで1374年の「クイントゥス谷の戦い」で彼らを撃破することに成功しました。その翌年、ヴァルスタポール王は急逝しました。彼は父と同じように「揺るがす者の寺院」に葬られました。

 次に王に選ばれたヴァルスタポールの息子オヴァーティンは、積極的に北のペローリアを襲撃し、時にはかなり帝国領の奥深くまで侵攻することもありました。このころ、ペント人の大侵攻によって滅亡の淵にたたされていたルナー帝国は、こうしたターシュの侵略に対してほとんど何も手が打てなかったのです。かくしてオヴァーティン王の二十年の治世は数多くの勝利に彩られることになりました。しかし、王の治世の末期にそれまでペローリア人に対抗する上で心強い同盟者であったグレイズランド人との仲が険悪になりました。オヴァーティンの息子ヤランドロスはグレイズランド人の種つけ用の家畜を奪い、公然と彼らに戦いを挑んだのです。激怒したグレイズランド人は軍勢をあげてターシュに襲いかかりましたが、「揺るがす者」のカルトの魔術によって壊滅の憂き目を見ました。これ以後、両者は仇敵として憎みあうことになりました。オヴァーティン王とヤランドロスはこれをきっかけに仲違いし、とうとう王は退位を余儀なくされました。

大王ヤランドロス

 ヤランドロスは双子の孫であることを理由に王位につきました。これは血筋ではなく資格によって王を選ぶオーランス人の伝統とは異なるやり方でした。しかしヤランドロスの継承に異を唱える氏族はすぐに圧服されました。かくしてターシュ部族はターシュ王国となりました。以後のターシュ王はすべて血筋によって世襲相続されていくようになったのです。

 当時、ペントの英雄シェン・セレリスとその大軍勢によって押しまくられていたルナー帝国の弱体化にともない、ヤランドロスはその精強な軍事力を背景にターシュ王国の支配地域を劇的に広げていきました。彼はホーレイ南部を“古ターシュ”と呼んで、自分の威令をそこに届かせようとしました。ターシュの東には、混沌の巣窟スネークパイプ盆地を見下ろす高地でアルダチュールの町を中心としたいくつかの部族が暮らしていましたが、ヤランドロスは彼らもターシュ王の権威に服従させました。ケロ・フィン山の彼方には南方からやってきたヒョルト人たち(サーター王国参照)が住みついていました。ヤランドロスは使者を送って彼らと協力関係をとりつけました。今や宿敵となったグレイズランド人も、先の戦いで受けた痛手ゆえに、ヤランドロス王にしたがわざるを得ませんでした。

 このようにしてヤランドロスは同盟者を増やしていきましたが、東の彼方にあるプラックス平原に住む騎獣遊牧民を傭兵としてやとったときに、問題が起きました。その中には“牙傑”ジャルドンというカーン(遊牧民の長)がいたのです。彼は最初こそターシュをたすけて仇敵であるペント人をうち破りましたが、やがてターシュにも敵対し始めました。ジャルドンの巧みで勇猛な戦いぶりの前にさしものターシュ軍も苦戦し、多大な損害を受けるはめに陥りました。

 そんな中で英雄的な勝利をおさめたのが、嵐の山脈沿いに暮らすヒョルト人であり、滅ぼされた一族の復讐をとげるためにヤランドロス王の部下となっていた戦士デリク・ポルジョニでした。彼は任務中に殺したプラックス人の皮をはぐことから“毛皮屋”デリクとも呼ばれ、遊牧民たちから蛇蝎のように憎まれていました。デリクはターシュ軍の先頭にたってプラックス人と戦い、ついに怨敵である“牙傑”ジャルドンを討ち果たしたのです。その後デリクはヒーロークエストを達成して自分の部族をドラゴン・パスとプラックスの境目にあるオアシス地域につくりあげました。これがポルジョニ族で、やがてサーター王国の同盟者となりました(サーターの部族参照)。

 ヤランドロスは嚇々たる戦果をあげ、最強のターシュの名声をあたりに広めることに成功しました。しかし、ターシュの全盛期であった双子王朝の栄光は、彼の跡を継いだオライオス王で途絶えることになりました。そして始まったのが悲惨なターシュ内戦だったのです。


ターシュ内戦

 五代目の王オライオスは今では治世最後の行いによってのみ知られている不運な君主です。1448年、オライオスは南ペローリアでの行軍の途中に偶然、トルクという禁断の地の国境を越えてしまいました。トルクは別名“狂気領”と呼ばれ、ルナー帝国建国時に赤い月の女神が連れ帰った混沌の怪物クリムゾン・バットを見たために狂ってしまった哀れな人々を永久に閉じこめておくためにつくられた結界でした。混沌に汚された危険きわまりないこの土地はその境目を広げたり縮めたりする性質を持っており、そのことがターシュ王に不運をもたらしたのです。

 トルクに封じられていた狂人の軍勢と混沌の悪霊たちは一斉に牢獄から漏れだし、ターシュ軍とオライオス王を飲み込みました。不幸中の幸いなことに、狂気の軍勢は北の方ペローリアへと向かったので、ターシュ本国が王と同じ運命をたどることはありませんでしたが、本当の不幸はその後始まりました。オライオス王にはまだ嫡子がいなかったのです。

 次の王位継承をめぐって、ターシュの諸地域・諸党派がおのおの候補者をたてて争い始めました。たとえば、「揺るがす者の寺院」とケロ・フィン山麓の諸部族が支持する女祭エランサ・ゴア、アルダチュール周辺の諸部族が立てる“巨人”ターカロール公子、王国北部のタルフォートの町に立ってルナー帝国からの援助を受けるジョーンカロールなど、です。かくして結果的にターシュの独立を奪うこととなった「ターシュ内戦」が始まったのです。

 1455年、エランサ・ゴアは“金髪の”アリム率いる女ばかりの部隊に奇襲を受けて殺されました。彼女の魔術は男にしか効かなかったからです。アリムの軍勢はそのままケロ・フィン山を包囲し、「揺るがす者」のカルトが政治に介入しないという誓約をとりつけると、自分の党派をつくって王位継承紛争に参加しました。

 1458年、帝国領シリーラからやってきた軍勢がタルフォートを襲撃し、ジョーンカロールは敗れて帝国に送られました。“金髪の”アリムは裏切りにあって殺され、“巨人”ターカロールの跡をついだアルダチュールの公子も手ひどい敗北を喫しました。各地で反乱が起き、シリーラの軍勢は追い出されましたが、古ターシュ(ホーレイ南部)の都市フィリチェットはルナー帝国の支配下に復しました。

 ターシュ内戦は泥沼の様相を呈し、その混迷の十年の間、ターシュの国土は戦乱で荒れ果て、人心も荒廃しました。それまでターシュに服従、あるいは同盟していた周辺の諸族はこぞって牙をむき、この豊かな土地を荒らし回りました。双子王朝が築き上げた繁栄はもろくも崩れ去ったのです。


ホン・イールと帝国の策謀

 1455年、「揺るがす者の寺院」はアリムの妃でありカルトの創始者である女祭ソラーナ・トールの魂呼びに成功し、大女祭は彼女の化身となりました。その導きのもとで寺院内の秩序は取り戻され、ケロ・フィン山麓の諸部族は再び統合されました。そして新たなターシュ王として“黒い牙の”イラロが選ばれ支持されました。

 イラロは「揺るがす者の寺院」の全面支援を受けながら、他の党派を次々とうち破り、屈服させていきました。やがておおかたの対抗勢力をたいらげたイラロは、ターシュの王冠をかぶり、内戦を終結させたのです。しかし、かつてヤランドロス大王が支配していたホーレイ南部やクイヴィン族といった旧領を回復することはついにできませんでした。

 こうしてイラロ王朝が始まりました。この王朝は栄光に満ちた双子王朝とは違って、血塗られた臭いのする王朝でした。なにしろ、ひとりとしてまともな死に方をした王が出なかったのです。イラロは宗教儀式の途中で急死しました。彼の息子タスティニムは人狼と戦って殺されました。タスティニムの弟ハリフィトールは暗殺され、その犯人であるマロフドゥルは別邸でプラックス人に襲われ惨死しました。

 そして、このころからペント人との戦いに勝利したルナー帝国の魔手が再びターシュにのびてきました。マロフドゥル王が政略結婚でルナー宮廷の一員となったのはその端緒ともいえましたが、マロフドゥルの息子であるターシュ第十代の王パイジームサブは、ルナー帝国からやってきた女英雄“技芸の女”ホン・イールに惚れ込み、彼女との結婚を望みました。

 ホン・イールは赤の皇帝の娘であり、侵略者であるペント人を手玉にとったことをはじめ、さまざまな偉業を達成した若き英雄でした。彼女は強力な魅了の魔術を使うことができ、ターシュにやってきたときも、この力を用いてターシュでもっとも神聖な大地の寺院の深奥部に潜り込むことに成功しました。大地の女祭たちは皆、ホン・イールをまるで身内であるかのように扱うようになっていたため、王がホン・イールとの結婚を望んだときも、それをあっさりと許してしまったのです。

 1490年、パイジームサブ王とホン・イールとの婚礼が一季節の準備と一週間の儀式の後、挙行されました。盛大な宴の後、王と花嫁は婚礼の部屋へと姿を消しました。

 そして王は二度と姿を見せることはありませんでした。七日後、ホン・イールは部屋から現れて身ごもったことを告げました。しかし女占い師がパイジームサブが死者の国に旅だったことを見通したため、ターシュ人たちは一斉に反乱の狼煙をあげました。すぐさまホン・イールは婚礼に列席していたルナー帝国の軍勢を動かし、総督を任命して反乱の鎮圧に乗り出しました。ゴールドエッジの町はあっという間に陥落し、アルダチュールやケロ・フィン山麓でもルナー支持者たちが反乱分子を皆殺しにしました。これに対してグレイズランド人は大地の寺院を守るために出兵し、サーターや南方諸国からもターシュ救援のための義勇兵が集まりました。

 ルナー帝国軍と反乱軍は「踊る姉妹の戦い」で激突しました。ルナー軍の魔術と戦力は圧倒的で、反乱軍は追い散らされました。反乱に加わった諸都市は陥落し、略奪しつくされました。ホン・イールの息子フォロネステスが九ヶ月後に生まれたとき、ほとんどの反乱諸部族は疲弊しきっており、総督からの降伏勧告を受け入れるしかありませんでした。それでも、南東部の部族は断固として服従をこばみました。彼らはターシュ流民と呼ばれるようになり、ケロ・フィン山麓でルナーに対する戦いを続けましたが、協力者も得られぬまま次第に衰えていきました。

 かくしてターシュ王国はルナー帝国の手に落ちました。幼王フォロネステスの立ったターシュはルナー属領地のひとつとなり、ファーゼストの町が新しい王都になりました。ファーゼスト市は根底から建て直され、完璧なルナー様式の見本となるような都市に生まれ変わりました。1496年からはグローラインを発生させる「昇月の寺院」の建設がファーゼスト郊外ではじまりました。こうしてルナーの習慣や芸術、そしてカルトが人々の間に広まり始め、帝国の影響が着実にターシュに根付いていったのです。


パラシーとファージェンテス

 1538年、フォロネステス王が食事を喉に詰まらせて死ぬと、その息子であるフィリゴスがターシュ王となりました。彼は父親と同じように軍事よりも魔術や交渉に重きを置く政策をとりましたが、その治世の間に、ターシュ流民最大の英雄が現れました。“長柄の斧の”パラシーです。「揺るがす者の寺院」で育った孤児であったパラシーは強力な戦士であり、人望もありました。彼は1538年にフィリゴス王率いる軍勢が流民討伐のためにやってくると、「揺るがす者の寺院」の魔術の助けを借りて大勝利をおさめ、余勢をかって王都ファーゼストと昇月の寺院を破壊しました。王とその一族はシリーラに逃れるのがやっとでした。パラシーは古きターシュの伝統を受け継ぐ王として即位をはたしました。

 ファーゼストを復興して王都としたパラシーはターシュ全土に善政を敷き、民の信望を集めました。その平和な治世は「ドラゴニュートの夢」という奇妙な事件が起きたことで知られています。これは、突然何の前触れもなくドラゴニュートが大挙して姿を現し、余人には理解できない儀式(のようなもの)を行ったというものでした。この現象はターシュだけでなく、ルナー帝国など他の地域でも起こりました。この事件の意味がわかった者は誰ひとりいませんでしたが、当時、ターシュ奪還をもくろんでいたルナー帝国は、不慮の事態をおそれてその作戦を延期しました。一方、パラシー王は女祭たちの助言にしたがってドラゴニュートらと親交を結ぶことに成功しました。また、忌まわしの森に住んでいた凶悪なタスク・ライダー族を討伐し、森に住んでいた人々からも支持を集めました

“王殺し”ファージェンテス

 しかしパラシー王の命運は尽きようとしていました。1555年に先王フィリゴスとその弟であるファージェンテス将軍がルナー帝国から帰還したのです。両王の軍勢は「カーンシー農場の戦い」で激突しました。当時のサーター王ジャロラーはパラシーに味方し、プラックスの傭兵たちもルナー軍を襲撃しました。ルナー魔術師の部隊は彼らの突撃の前に壊滅し、泥沼に落ちたフィリゴスとその部下たちは全員捕らえられて惨殺されました。

 この勝利に気をよくしたパラシー軍は宴の後、軍を解散して収穫のために兵を農地へと返しました。が、このときをねらってファージェンテスはパラシーの陣営に夜襲をかけたのです。パラシーはわずかな手勢とともにこれを迎え撃ち、「斧の野」で敵将ファージェンテスと叙事詩に残る一騎打ちを戦いました。戦いは計略によってルナー側の勝利に終わり、正しきターシュ王“長柄の斧の”パラシーはファージェンテスの腕を道連れにその剣の前に倒れたのです。流民たちは嘆きながらパラシー王の遺体を「揺るがす者の寺院」に持ち帰り、歴代の王たちとともに葬りました。今もパラシーは英雄として流民たちに祀られています。

 隻腕となったもののターシュの王位を取り戻したファージェンテスは、おそろしく積極的な対外政策に打って出ました。彼は容赦なく近隣の諸族に貢ぎ物や服従を要求し、したがわなければ手段を選ばずこれをうち破りました。かくして、ファージェンテスは“長柄の斧の”パラシー王、彼の後継者であるヘンドレイコス王、そしてサーター王であるジャロラーとジャロサー、さらにバラザール人のヤータンド王、アガー王ローンスタルを殺害したことで“王殺し”と呼ばれ、恐怖の名声を轟かせました。

 強硬な対外政策の一方で、ファージェンテスはターシュ国内の道路や都市整備にも力を入れました。特に一度パラシーによって完全に破壊されていたファーゼスト市は再びルナー様式に作り直され、新たな市街地とともに美しく完成しました。そして、1579年、イラロ王朝の王としてはじめて、ファージェンテスは安らかに天寿をまっとうしたのです。


モイラデス王の野望

 ファージェンテス王の跡を継いだのは息子のモイラデスでした。モイラデスは父親とはちがって戦士としての名声はなかったものの、魔術師として優れた才能を発揮しました。彼は父王麾下の子飼いの優秀な軍事貴族らを「ファージェンティテス」と命名し、ルナー帝国軍から独立した指揮官として重用しました。彼らは私兵を持つことすら許されるエリート軍人であり、ルナー属領地軍の将軍としての待遇を受けられるほどの権威を持つに至りました。現在も、ファージェンティテスの将軍たちは軍事全権を握るターシュの中核として周辺諸族におそれられています。

 1582年、ターシュ軍は再び流民軍と「灰色熊の峰の戦い」で激突しました。このとき、晩年のファージェンテス王の宿敵であったサーターの“トロウル殺し”ターカロール王が妻であるグレイズランドの“羽馬の女王”とともに流民軍に加勢していました。戦いはターシュ軍の勝利に終わり、流民は女祭やサーター王もろとも全滅の憂き目にあいました。流民の根拠地であったバグノット市は包囲戦の末陥落し、流民の勢力はケロ・フィン山麓だけに縮小を余儀なくされたのです。

 流民をうち破った後、ターシュ軍はルナー帝国軍と行動を共にして、南方への遠征に参加しました。1602年には山間の要害ボールドホームを落とし、サーター王国を滅亡させました。聖王国への侵攻は1605年の「ビルディングウォールの戦い」で頓挫しましたが、遠征によって多数のルナー支持者がドラゴン・パス全域に生まれ、ターシュは帝国と南方からの物資や文物の流入で富み栄えました。軍事外交をファージェンティテスの将軍たちに任せたモイラデス王は、ファーゼストに属領地大学を設立し、高等教育の振興につとめました。

王と王子

 モイラデス王はグレイズランドの“羽馬の女王”との結婚を達成し、サーター王ターカロールに続く「ドラゴン・パス王」として即位しました。しかし、1610年、五十二歳になった彼に暗殺がくわだてられ、もう少しで死ぬところでした。奇跡的に生還したモイラデスは宮殿に引きこもりがちになり、実務は世継ぎである二十八歳のファランドロス王子が執るようになりました。

 ファランドロスは有能な王子であり、今やドラゴン・パス最強の国家となったターシュに善政を敷けるだけの器を持っていました。しかし、1613年にサーター地方で起きた大反乱を経て、次第に属領地政府内で高まる権力闘争に巻き込まれるようになっていきました。彼はターシュの名称“博識”ファザール将軍を信任していますが、彼の名声をねたむ者による更迭要求の声は日増しに高まっています。特に帝国中央からやってきた大魔術師“聡明なる”タティウスとの確執は深刻だといわれています。

 一方、半ば隠棲に入ったモイラデス王は、ますますルナー哲学や魔術への傾倒を深め、世俗の事柄は息子に任せきりになっています。彼はターシュをより偉大にするための長大で強力な儀式の準備を進めているのです。彼はもはや自分を伝統的な王という称号ではなく、ダラ・ハッパ起源の“コルツ”という尊称で呼ばせるまでになっています。もはや狂気に陥ったとしか思われない(あるいはルナー哲学によって“啓発”されたのかもしれません)モイラデス王と、政争に悩まされるファランドロス王子の統治のもと、ターシュが今後より栄えるのか、それとも崩壊の道を歩むのか、それはまだ誰にもわかっていません。


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